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古代史と天皇

万世一系を確立・維持するために


 天皇家は、自己の万世一系を確立し、永続化するために非常な努力を払ったことだろう。ここでは、その痕跡を確認したいと思う。

■天皇家には姓がない

 古代、日本や朝鮮をはじめ東アジア諸国は、中国化を目指したが、次第に日本は朝鮮と違い、「中国」になろうとしても、なれないことがわかってきた。国情の違いであろう。日本は冊封体制からの離脱を目指すようになるが、それほど簡単なことではない。唐と新羅の連合軍の前に、風前の灯だった百済を救援するために、派遣した日本水軍が大敗北したのは遠い昔のことではない(663年白村江の戦い)。

「中国風」になろうとしてもなれない自分(日本)だが、離脱は、ヘタすれば「反逆」と捉えられ、膺懲(ようちょう)の対象になるかもしれない・・。 膺懲とは、上位の者が悪い子を懲らしめる、成敗するというような意味がある。

 しかし一旦「離脱」を決めて動きはじめれば後戻りはできず、それに邁進しなくてはならない。さらには天皇を頂点とする体制を構築しなければならない。その中でできたのが(その一部にすぎないとは思うが)、たとえば@倭から日本への変更、A片仮名・平仮名の考案、B天皇という称号だったのではないか。

同時に、万世一系を否定するような痕跡(たとえば王朝交代)は消さなくてはならない。
天皇家のことが書かれた古文書を抹殺することはもちろんだが、さらに「姓」注目され、消されたのではないか。

そう。
今さらだが、天皇家には姓がないのだ。
天皇は、古事記や日本書紀の昔から名前はあっても姓はないのだ。

 明治以降、姓と苗字(名字)は同じものになったが、かつては区別されていた。簡単にいえば「姓」は一族の名称を表すもので、通常天皇から賜るものだった。
一例をあげれば、平安時代、桓武天皇の皇子葛原親王(かつはらしんのう、786〜853)の子、高見王(?〜?)の子高望王(?〜?)は皇族から臣籍に移り、「平」の姓を賜り平高望と称した。武家平氏の誕生で、平将門や平清盛はその子孫である。

 同様に源氏も天皇から賜った姓で、名字という書き方もあるように狭い地域の土地(字、あざ)の名前を言う。
源氏の一族で栃木県足利あたりに住んだものは足利氏、群馬県新田に住んだ者は新田氏を称したように。
新田義貞は姓は源、名字は新田。通称は小太郎といい、正式な(公的な)名前は新田小太郎源義貞となる。

天皇家の姓がないことについてネットで検索すると、

王者としての天皇は、スメラギ、スメラミコト、オオキミなどと呼ばれていたが、この時期は文字の使用が一般化されていなかったので、表記が問題になることはなかった

あるいは

第一の理由として挙げられるのは、天皇が「唯一無二の存在」であることです。日本の皇室はひとつの家系が脈々と受け継がれてきた「万世一系」であり、姓や苗字を名乗って他の世帯と区別する必要がありません。

とも書かれている。これと同じ考えである。
私も、なるほどそうかもしれない、と思う。
しかし天皇家には王朝交代があったと考える私は、権力者の交代を隠すために、あえて天皇から姓をなくしたのではないかと思う。

 易姓革命という言葉がある。ここでも、説明したが、易姓とは支配者(権力者)の姓が変わるという意味である。
たとえば中国古代国家の秦、漢をはじめ、隋とか唐とか。それぞれの高祖(初代皇帝)は、それぞれ瀛政、劉邦、楊堅、李淵という。二文字で最初が姓、つぎが名前になる。また、日本では平、源、北条、足利、織田、豊臣、徳川といえば、鎌倉以降江戸までの歴代の支配者・権力者である。これをみれば、権力者(の家系)が交代したことは一目瞭然である。

逆をいえば、姓がなければ、名前だけでは権力者の交代はわからない、ということになる。

■権威と権力の分離

 日本において、革命を起こさせないための最大の工夫は権威と権力の分離であろう。
権力者が交代したとき、新たな権力者は自己の権力の正当性、正当な後継者であることの「お墨付き」を必要とし、お墨付きを与えるのが権威のある者になる。現在では議員にしろ内閣総理大臣にしろ、選挙での当選が正当性の理由になる。

多くの革命は、現政権に不満を持つ、たとえば貧困にあえぐ民衆が決起し起こすが対象となるのは「現政権」である。権力者であって権威者ではない。
権威と権力を分離することによって、天皇家は流血の革命を避けることができたのだ。

 権威と権力の分離は、おそらく日本だけであろう。
それは天皇の意志とは別に臣下の強引なやりかたで、権力を奪われたと考えられるが、皮肉ではなく、素晴らしいことだと思う。
古代の天皇は、例外なく軍団の長であり、政治の元締めだったので、当然ながら権威も権力も両方掌握していたが、いつのころ分離されたのか。

 天皇自ら軍団を指揮し、戦い(壬申の乱)に勝利して即位したのは、40代天武天皇(在位673〜686)が最後となる。天武は古代天皇の頂点ともいうべき権力者だったが、その死後後を継いだ持統天皇のころから、藤原氏が台頭してくる。

 686年、天武が亡くなると、後を継ぐ候補は2人いた。大田皇女の産んだ大津皇子と鸕野(うの)皇女が産んだ草壁皇子である。大田と鸕野は天智天皇の皇女であり、姉妹だった。

 ここで、我が子の即位を目論む鸕野は、草壁と共謀し大津に無実の罪をきせて死に追いやった。しかし草壁は、すぐには即位はできなかった。父天武と大津皇子の死とが重なり朝廷内での反感を気にしたと思われる。
このため、鸕野はここで自ら即位し、持統天皇となるのである。持統は、我が子草壁を即位させるため、大津皇子だけではなく、高市皇子(654〜696)をも死なせている。

ところが持統の3年、689年草壁は病気で急死してしまった。文武は15歳で即位したが在位10年で死去。後を継ぐ聖武は7歳と幼かったので文武の母親が即位した。元明天皇(天智の皇女)である。

 こうした持統の一連の行為は、持統が自分の子孫を皇位につけるためだったが、これは持統一人が考えた陰謀とも思えない。必ずや持統の相談役、黒幕がいたように思える。だとしたら、その黒幕とは藤原不比等(659〜720)ではないか。 大津や高市を罪に陥れたのも、持統と不比等の共同謀議であろう。

 これをきっかけに、藤原不比等は持統の政治顧問(?)のような立場になったのではないか。しかし、不比等はそれに満足するような男ではなかった。
平安時代中期以降、藤原氏は政治の実権を天皇からうばい、道長(966〜1028)の代になって全盛期を迎えるが、不比等はそのキッカケをつくったが、政治の実権は、平安時代初期までは依然天皇にあった。しかし藤原良房(804〜872)と後を継いだ基経(836〜891)は、縦横に辣腕をふるい人臣初の摂政となり、藤原氏全盛期(?)の基礎をつくり上げる。

権威と権力はここに分離され、天皇は権威だけの存在になり、権力は本来家臣であるはずの摂政とか関白、鎌倉以降は征夷大将軍に移り江戸時代の幕末まで続いた。
現日本国憲法では、天皇には権威も権力もない。それは、憲法の前文にこう謳っていることからも明らかである。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その「権威」は国民に由来し、その「権力」は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。

内閣総理大臣は国会が指名し、天皇はそれを承認するだけである。

■大嘗祭と天皇霊

日本書紀によれば30代敏達天皇の10年(582年)、アヤカス(綾粕)という男とその一味が辺境の地を荒らしたので、捕らえて処刑しようとしたら三輪山に向かってこう誓ったという。

今後子々孫々に至るまで帝(天皇)にお仕えします。もし誓いに背いたなら、天地の神や天皇霊に私たちの子孫は根絶やしにされるでしょう。

アヤカスは、天皇個人ではなく三輪山に誓いを立てた。三輪山とは、天皇霊そのものであったのだろう。

《余談》
奈良県の三輪山は、古来大物主(大国主)を祀る神の山として知られる。山中では、水分補給のためのミネラルウォーターなどをのぞき、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止となる。

 大物主は、第7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ、略してももそひめ)との結婚でもしられる。
百襲姫は、夜しかやってこない夫に不審をいだき、姿が見たいというと、夫は明日の朝、櫛の箱にいるから見るとよい。しかし私の姿を見て驚いてはいけない、といった。

三輪山

 その言葉どおり、翌朝百襲姫が櫛箱を開くと一匹の蛇がいた。
悲鳴を上げる百襲姫に、大物主は恥じて三輪山に帰ってしまい、呆然とした百襲姫は思わずその場に座り込んだ。すると床に刺さっていた箸が彼女の陰部に刺さり、それが原因で姫は亡くなった。百襲姫が眠る古墳は箸墓古墳とされるが、その名のいわれはこの逸話による。

さて天皇霊である。
天皇霊(スメラミコトノタマ)とは、天皇の天皇たる所以が天皇に付着する霊魂にあるという考えである。
文献上天皇霊という語がみえるのは敏達天皇の時代であっても、天皇霊という考えは、それよりずっと古くから存在していたとと思われる。

歌人山中千恵子(1925〜2006)は、その著「三輪山伝承」でこう述べている。

すべての村や国にはそれぞれ固有の魂(国魂)があり、これが選ばれた人の身体に入ることによって、村や国を自由に支配する威力が生まれるものと考えられていた。その国魂の最もすぐれて大いなるものが、天皇の霊である。

霊魂が外部から来て付着するという考え(信仰というべきか?)は、古代人にとってはごく普通のことだったかもしれない。そして霊魂のなかでも最も強力と考えられていたのが天皇霊であっただろう。
民俗学者の折口信夫(1887〜1953)は、この天皇霊に注目してこのように述べている。

昔は天子様の御身体は、魂の入れ物であると考えられていた。天子様の御神体のことをスメミマノミコトと申しあげていた。「ミマ」とは肉体を申しあげる名称で、御神体ということである。このスメマの命に、天皇霊が這い入って、天子様はえらい御方になられるのである。

 つまり折口は、天皇の身体には容器(?)が二つあって、一つは自分自身の生命を入れるもの。もう一つはこの天皇霊を入れるものと考えた。そして天皇に天皇霊が入って、はじめて宗教的政治的を問わず天皇としての権威・権力が発揮できると考えた。

宗教学者の山折哲雄(1931〜)は、このことについこのように述べている。

天皇が天皇であることのもっとも重要な要素は、天皇の体に含まれている天皇の霊だといっています。天皇というのは、肉体は滅んでいくけれども、次の天皇にその霊が継承されていく。(藤原書店刊行 環、2013年54号)

つづいて折口は、天皇の肉体が滅びると、天皇霊はそこから離れ新天皇に移行する。それを実行する儀式が大嘗祭と考えた。


 天皇が交代すると、まず新天皇の即位の礼があり、即位したことを国の内外に示す。つぎに天皇一世に一度の大嘗祭を11月23日に行うことになっている。令和元年の大嘗祭について、宮内庁はつぎのように述べている。

大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖(天照大神)及び天神地祇(すべての神々)にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。

つまり11月に行われるのは、その年の五穀豊穣を天照大神やその他すべての神々に報告感謝し、今後の豊作を記念する儀式ということになる。

 大嘗祭で主要な神事が行われる正殿を、東は悠紀殿(ゆきでん)、西は主基殿(すきでん)といい、両殿ともに枕や衾(ふすま)などを備えた八重畳が中央に置かれ、その脇に天皇が着座される御座と神座があるという。

ここでどんなことをするのか。その詳細は今なお謎だが、天皇は、悠紀殿・主基殿にこもって、たった一人で天照大神をはじめとする天神地祇(てんじんちぎ、天と地のすべての神々)にお祈りする。そして共食する。折口は、亡くなった天皇に添い寝しているのだろうという解釈する。

即位の礼(NHKHPより) 大嘗宮(日経HPより) 大嘗宮の主な建物
(クリックで拡大)
主基殿 悠紀殿

 これをさらに突き詰めたのが思想家吉本隆明(1924〜2012)で、その著書共同幻想論の中の祭儀論で言う。
祭儀論は、祖先神が他界からこの世に戻ってくる話で、生誕と死の循環の話でもある。
吉本氏によれば、古代では生と死はかけ離れたものではなかった。イザナギとイザナミスサノオとオオゲツヒメを例にあげて解説する。
私はここで、死は生の延長線上にある。生と死は連続性を持つ、と書いた。(私はそのコンテンツを書いた時、共同幻想論を読んでいたわけではないが、高名な思想家と同じ意見になったことをささやかな自慢にしたい。)

 石川県能登町では、毎年12月5日。豊穣に感謝し、田の神様を人間のように家に迎え入れて入浴と食事でもてなす。神様は翌年2月9日まで家にいるという(田の神迎え)。そして翌年、春耕に先立ち送りだす(田の神送り)。

吉本氏は、この能登町の二月ほどの風習を一夜に圧縮したのが大嘗祭だという。
天皇は、悠紀殿と主基殿にもうけられた神座にやってきた神(天照大神、)と食事をする。さらに悠紀殿、主基殿には寝具があり、ここに寝ることは神との性行為(生誕)と考えた。
もしこの吉本氏の考えが正しければ(宮内庁がこれを正しいとはいうまい)、能登の風習は、かつては各地で行われていたのではないか。

以上まとめると、(1)姓をなくすことで易姓革命の痕跡を消し、(2)権威と権力を分離して流血革命を防いだ。そして(3)大嘗祭という伝統を守っているが、識者によれば、これは天皇霊の継承だという。

さて吉本氏は、祭儀論のなかで、東洋史学者護雅夫(1921〜1996)は、「遊牧騎馬民族国家」で大陸の首長の即位儀礼について、大嘗祭との共通性をこのように紹介している。

現在11月23日は「勤労感謝の日」とされていますが、戦前は「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれていました。それは宮中で新嘗祭といわれる祭儀が行われるからです。これは秋の収穫祭で、天皇がその年の天神地祇にささげてその恩に感謝し、また自らもこれを食する祭りです。

このうち、天皇の即位後はじめて行われるものを大嘗祭といい、とくに重要視されています。そして、天皇の即位式は、じつは、この収穫祭を本体としたものであったのです。
その大嘗祭のとき、御殿の床に八重畳をしき、神を衾(ふすま)でおおって臥させ、天皇も衾をかぶって臥し、一時間ほど、絶対安静のものいみをします。これは死という形式をとっているのですが、そのあいだに神霊が天皇の身にはいり、そこではじめて天皇は霊威あるものとして復活するわけです。

つまり大嘗祭のなかの死から復活(生誕)ということだが、吉本氏は、紹介と同時に批判もしている。

世襲大嘗祭は護雅夫も認めているように農耕祭祀の昇華されたものである。もし大陸の遊牧騎馬民族の首長の祭儀と、天皇の世襲大嘗祭の儀礼との同一性を確定したいならなぜに遊牧騎馬民族の祭儀と農耕民族の祭儀とが、そのまま類比できるのかはっきり結論づけねばならぬ。

 私は、吉本氏の意見について、はて、そうかな?と思う。
吉本氏は、天皇家は農耕民族と考えているのだろう。だから護氏の遊牧騎馬民族の祭儀と農耕民族の祭儀との共通性について疑問を持ったのだろう。

しかし天皇家は100%農耕民族(?)というのはどうだろう?
たしかに天皇家には農耕民族の色合いが濃いが、同時に大陸の遊牧騎馬民族的な要素も少しは持っているのではないか。なぜなら、桓武天皇の母の高野新笠(たかの にいがさ、?〜790)は、百済の武寧王の子孫だから桓武には朝鮮の血も混ざっているし、大陸からの騎馬民族(たとえばツングース等)の血を引いていても不思議ではないと思われる。

 いずれにせよ大嘗祭は、「神霊が天皇の身にはいり、そこではじめて天皇は霊威あるもの」になる祭儀なのだろう。
では、天皇側からではなく、権力者の側、足利、織田、豊臣、徳川の立場に立てば、なぜ彼らは天皇家を滅ぼさなかったのかという疑問が生じる。
権力者の立場から言えば、なぜ時の権力者たち・・・平氏、源氏、足利氏、織田氏たちは天皇を滅ぼさなかったのか。

 簡単にいえば、権力者たち(特に鎌倉時代以降の武家政権)は、武力で天皇家を滅ぼすのは容易だが、その後の「天皇家を滅ぼすことの正当性」を主張できなかったからではないか。なぜなら天皇は直接政治には関わらないから。
自分の正当性を主張できることは、非常に重要な要素になる。織田信長は、当時の将軍足利義昭と戦う時、世間を納得させるため、世間を味方につけるための弾劾状を発表した。
だから私は、ここで織田信長は天皇家は滅ぼさず、天皇を上回る新たな権威を構築しようとしたと書いたのだ。(Topはここ


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