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古代史と天皇

神話が歴史となる日


■天壌無窮の神勅

 当然ながら神話は神話であって、歴史上の事実ではない。
しかし明治時代、日本政府は天皇による統治を絶対化・正当化するために、神話を歴史的事実として国民に広めることになる。その
根拠は、天孫降臨の際してアマテラスがニニギに与えた神勅(天壌無窮の神勅)である。すでに前出しているが繰り返す。

古事記では

この豊芦原に水穂国は汝知らさむ国ぞと言依さし賜う。汝命のままに天降るべし

(意味) この豊芦原の水穂国は、なんじが統べ治める国である。わが言葉のまま降りなさい

これが日本書紀になると少々詳しくなる

一書にいわく・・中略・・
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ

(意味) 葦原の千五百秋の瑞穂の国は、わが子孫が王たるべき国である。皇孫のあなたがいって治めなさい。さあ行きなさい。宝祚の栄えることは、天地と供に窮まりないのです。


 ここでいう「一書にいわく」とは、こういう説もあるということで「本文」ではなく、いわゆる「異説」のことである。
つまり日本書紀が編纂されたころは、天壌無窮の神勅は異説だったのだ。

その後、この神勅(神の命令)は古語拾遺(こごしゅうい)という書物に、異説ではなく「本文」として引用された。もっともこの書物には、、元々異説はないのだが。
古語拾遺とは、大同2年(807年)、古代氏族で祭祀を担当した斎部広成(いんべひろなり)が、同氏の伝承・歴史を記録した書物だが、まだまだ政治・思想上の「主流」ではなかった。

 しかしはるか後年、江戸時代の中期。天壌無窮の神勅は、国学者の本居宣長(1730〜1801)に注目されることになる。国学とは簡単にいえば、江戸時代中期に興っ学問で、古事記、日本書紀などから日本や日本人の「あるべき姿」を研究する。本居宣長(1730〜1801)はその代表的な学者で、その著書「玉くしげ」、「秘本 玉くしげ」でいう。(建国神話の社会史/古川隆久より)

天照大御神の子孫が統治するこの日本は、世界のすべての国の大本なのですべての国は日本の心服すべきなのに、外国はその内実を知らず日本を小さな島国一つとばかり考えている

続いて

外国は王朝がしばしば変わるので君主を殺した悪い人間でさえ道理にかなった聖人となれるが、日本は天照大御神の子孫たる天皇が永遠に統治する国なので天皇の意向にそむいたものが長続きすることはない

さらに宣長は

古事記に天照大御神は日の神と書かれていることを根拠に、天照大神は現に今ある太陽なので、天照大神は全世界を照らしている。それが日本に来たのだから、世界各国は日本を尊敬すべきである

 と説く。これは、後に日本国内だけではなく天皇は世界を統治するものであり、それを理解しない外国人は愚かである、という狂信的思想・・尊王攘夷の考えに発展していく。

本居宣長

宣長の思想を発展させたのは水戸学の学者たちだった。
水戸学とは、このような学問である。

水戸学は、江戸時代の日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)において形成された学風、学問である。
第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた歴史書『大日本史』の編纂を通じて形成された。やがて第9代藩主徳川斉昭(1800〜1860)のもとで尊王攘夷思想を発展させ、明治維新の思想的原動力となった。(Wikipediaより)

以下、余談である。

 水戸学の基本になった思想は朱子学だった。
その中に、この国(たとえば日本)の正当な支配者は誰なのか・・、というものがある(大義名分論)。当時の日本の支配者はいうまでもなく幕府だが、突き詰めて行けば本来の正当な支配者は天皇なのではないか・・・。

徳川御三家という立場でありながら、「誰が正当な支配者か・・」などと考えること自体、本来あってはならないことであろう。しかし水戸藩は次第に天皇家側に傾いていく。それには水戸藩独特の「事情」があった。

 徳川御三家といえば、徳川将軍家に後継者がいなかったときの、いわば「血のスペア」で、現在の宮家と同じある。一説によれば、徳川家と朝廷(天皇家)が戦うことになった場合、御三家の尾張と紀州は本家に味方するが、水戸藩は朝廷側となるという「密約」があったという。

 かつて、一族が敵味方の二手に分かれて戦うのはめずらしいことではなかった。敵味方になって戦えば、どちらが勝っても負けても「家」は存続するのだ。
保元・平治の乱のとき、源平はそれぞれ二手に分かれ戦ったし、関ヶ原の戦いのときは、真田昌幸の長男信之は徳川に、昌幸と二男信繁(幸村)は豊臣方に分かれた。結果として敗れた昌幸・信繁父子は九度山に蟄居となった。

 「密約」に関係するのか、身分の上限は、尾張藩主、紀州藩主が将軍や大納言になれるのに対し、水戸藩主のそれは「中納言」までだった。
だから「水戸黄門」なのだ。黄門とは、中納言の唐(中国)風の呼び名である。

また水戸藩主は将軍になることはなかった。
最後の将軍徳川慶喜は、水戸藩出身だが、水戸藩を出て一橋家に入ったため、その「制約」は解除(?)されたのだ。

・・・余談おわり

■国体

 さて、水戸学者による著書に「新論」という書物がある。
著したのは、水戸学の指導者ともいうべき人で、尊攘派の中心人物会沢正志斉(1782〜1863)である。10歳で儒学者藤田幽谷(ゆうこく、1774〜1826)に入門した会沢は、そこで徹底的に儒学をたき込まれた。20歳でロシアの南下政策を分析して著したのが千島異聞(ちしまいぶん)である。

文政7(1824)年には、漂着したイギリス人船員と接触し、西欧の東洋侵略について危機感を抱き、一連の研究成果を総合して翌8年に「新論」を著した。
その内容は次のようなものである。(会沢正志斉「新論」/苅部 直より)

 この本で正志斎がもっとも重要な課題にしたのは、日本の独立を保つための人心の統合である。
西洋諸国がインドやジャワ、フィリピンへと進出し、支配下に置くことができたのは、キリスト教を侵略の手段として用いたからだと正志斎は考えた。

彼らは日本に接近して、まず庶民に密貿易をもちかけ、キリスト教の神秘的な教えによって、西洋諸国の方に人心を惹きつけてゆくだろう。そうなればキリシタン大名が輩出した戦国時代と同じように、日本国内は分裂し、やがて西洋人によって支配されてしまう、と主張する。

 さらに、武士だけでなく町人・百姓までも含めて忠誠対象を統一するために、新論が提起したのは国体すなわち日本独自の国のあり方であった。そこでは天祖すなわち天照大神が、歴代の天皇に天下を治めさせ、その下であらゆる人々が君臣の分を守りながら、日本全体の統治に何らかの形に関わることとなる。この上下の秩序は天祖が定めたものなので、動くことがない。

 そうした論理によって、日本では、いまの天皇に絶対的な忠を尽くすことが、過去の天皇の統治を支えた先祖の志を継承することにもなるという意味で、孝の実践と一致すると正志斎は説く。そして、天皇の即位に際して、神を祀る大嘗祭を大規模に行なうことで、あらゆる身分の人々に国体を再認識させ、日本全体の秩序を保つよう、人心を統合できると説いた。

会沢正志斉

正志斎の理論は、日本全体の統治はあくまでも江戸の公方が行なうことを前提としており、尊王論ではあっても決して倒幕に結びつくものではない。だが徳川末期において、ペリーの来航と「開国」ののち、公儀に対する信頼がゆらぐようになると、尊王攘夷運動の書として『新論』は読まれるようになる。さらにまた、明治期の教育勅語や国民道徳論にまで、その影響を残すことになる。

ペリーの来航

  1947年5月。東京裁判の証人として山形県酒田市の出張法廷に出廷した元陸軍中将石原莞爾(1889〜1949)は、判事から「戦争責任は日清・日露戦争までさかのぼる」といわれたことに対し、「それならペリーをあの世から連れてきて、この法廷で裁け。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と持論を披露した。

太平洋戦争の遠因をペリーの来航に求めるのは石原莞爾だけではないが、その是非はともかくペリーの来航が日本史を転換させるきっかけになったのは間違いない。ペリー以前にも、幕末にはイギリスやロシアによる来航があって、江戸幕府はその都度対応に追われ、少しづつではあるが時代の流れは、一つの方向に向かいつつあった。

それに拍車をかけたのが1853年のペリー来航だった。それによって日本(幕府ではない)は、それまでの小手先ではなく、根本的に政治体制を変えざるを得ないほどの窮地に立たされることになった。

 以後、日本は精神的思想的にパニック状態になる。
それまで極東の地で気ままに過ごしてきた日本人にとって、古代では中国や朝鮮と国交をもち、江戸時代は鎖国制度によってわずかにオランダとも関係をもったが、それは気に入らなければいつでも止められるという気まぐれの付き合いにすぎなかった。

人間でも幼児のうちは仲の良い友達とだけ遊んでいればよかったが、成長し社会に出ればそうはいかない。大人になれば、気に入らない相手でも妥協点をみつけて付き合っていかなければならない。

しかし江戸幕府にはペリーを追い返す力はなかった。
日本人は、いきなり(やっと、というべきか)「世界」を相手にする必要性が生じたのだ。その結果、国内は開国派と尊王攘夷派の対立が起きることになる。
開国派からみれば、尊王攘夷派は時世を知らない愚か者達であり、尊王攘夷派から見れば開国派は売国奴であった。

 日本人社会は巨大なムラ社会である。できれば幕末の日本人は、開国などしないで鎖国のままでいたかったろう。人間でいえば子供のままで、気まま気楽に暮らして社会に出て(開国して)、他人(諸外国)とは付き合いたくはなかっただろう。しかし世界の潮流はそれを許さなかったのだ。

やむなく日本は開国(1854年)し、数年後江戸幕府は倒れ明治政府が誕生した。
尊王攘夷派は開国派に屈したが、その炎は決して消えたわけではなく、昭和になって日米開戦というカタチで再度燃え上がることになる。私は、ある意味太平洋戦争とは、昭和の尊王攘夷ではないか、と考える。

# & ♭

 個人でも団体・国家でも、それまでの生き方ややり方を他者の言動に影響されることなく、自らの意思で方向転換することはきわめてまれで、必ずそこには何か外的な要因や刺激があり、それによってはじめて自主的に、あるいはやむなく動くものと思われる。幕末の日本がその後者であったことはいうまでもない。

 圧倒的な軍事力を持つ敵を前にした時、人間のとる行動は、勝敗は別としてとにかく武器をとって戦うか、ひたすら敵に屈従するか、あるいは逃亡かの三つが考えられる。国家や民族も同じで、例えば中国(清)、アメリカインディアン 、インカ帝国等は前者を選んだ。

 中国は古代より東アジアに君臨し、強大な軍事力に支えられた中華思想という「理論」によって周辺民族を東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)と呼んで野蛮視してきた。日本は東夷ということになり、それを書いた古文書が魏志倭人伝の中の「東夷伝」だ。

19世紀の中国はいうまでもなく清国で、17世紀中期満州にいた周辺民族の女真族が漢民族の王朝だった明国を攻め滅ぼして建てた征服王朝である。その最盛期は6代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい1711〜1799)の時代で、元の時代を除けば領土は中国史上最大になり、経済は発展し外国との貿易・・・輸出先はイギリスを中心として商品は茶、絹、陶磁器等・・・だったが、これが後に中国の不幸のはじまりになる。 

 アヘン戦争やアロー号事件以降、清が列強諸国に連敗し、ついには半植民地化してしまった理由の一つは中華思想に固執し、近代技術の取り入れに不熱心だったことがあげられる。中華思想上、他国の文化・文明を学び取り入れるなど、ありえないことだった。

1844年、アメリカとフランスは清国敗北につけこんで、イギリスと同様の戦勝国としての待遇を清国に強制した(黄埔条約)。中国が、列強諸国の半植民地化していくのはこのときにはじまる。また、1842年の南京条約で香港がイギリスの領土となり、1997年に返還されたことは承知のとおり。 

 一方日本では、薩英戦争、下関戦争のように薩摩藩や長州藩による散発的戦闘はあったものの、その後は自国の安全を保つために、最終的には列強諸国に屈し、迎合と屈従を繰り返すことになる。それは江戸幕府は、衰えたりといえども軍事政権だったのでアヘン戦争の結果や自己の軍事的実力を検討しての結果だったかもしれないが。
結果として不平等条約をはじめとする屈辱はあったが、かろうじて植民地化は避けることができた。

しかし私には、植民地化が避けられてよかったと喜ぶほど単純なことではないように思える。半植民地化という悲劇にみまわれたものの、清国は「民族の誇り」をかけて戦った。アメリカインディアンやインカ帝国もまた。

日本人は民族の誇り・・・それは本居宣長や会沢正志斎の思想に代表されるかもしれない・・・は置きざりにして、列強諸国に迎合することで植民地化の危機を乗り越えた。その結果、乗り越えたとはいえ、それは日本人の深層心理に大きな葛藤を生じさせ、大げさにいえば民族の誇り・アイデンティティは崩れる寸前となったのではないか。

 見方によれば幕末から明治にかけての日本とは、その崩れかかった民族の誇り・アイデンティティを立て直すのに躍起になった時代だったともいえる。
和魂洋才という言葉がある。
日本古来の精神を保ちつつ、西洋の学問・知識を身につけようとする意味で森鴎外が唱えたというが、これほど明治時代の日本人の心情をあらわした言葉もめずらしいだろう。もっとも古代の日本は和魂洋才ではなく、和魂漢才だったが。

 やがて日本人は、積極的に欧米諸国の文物を学ぶだけではなく、富国強兵をスローガンに列強諸国側に回り、その一員となる道を選んだ。
その悲劇は単に日本国内だけに留まらず、アジア・太平洋地域までに及び、今日でもなお未解決の問題を数多く生み出すことになる。幕末の迎合と屈辱は、日本人にとって心的歪みとして、現在もなおその影響下にあると思われる。


■つっかえ棒

 話は少し戻る。壁でも塀でも、崩れかかったものを支えるにはつっかえ棒が必要なように、幕末、崩れつつあった日本人の誇り・アイデンティティを立て直すのには、精神的支柱となるつっかえ棒が必要だった。そこで担ぎ出されたのが天皇だった。

 列強諸国に対して軍事力という現実の力で対抗できない以上、日本人は日本独自のもの。現実的ではなく精神的なもので対抗する以外方法はなかった。
古代の王の末裔にすぎなかった天皇が、尊皇論として水戸藩などで細々と論議研究されてきたとはいえ、幕末になって突然倒幕派の精神的支柱となった背景はここにある。極端なことをいえば昭和初期から敗戦に至るまで軍部を覆った現実感覚の欠如、無意味な精神論もここから生れたのではないか。

 明治政府にとって一旦担ぎ上げた天皇をそのままにすることはできず、憲法で主権として位置づけるだけではなく、「万世一系」とか、「神聖ニシテ侵スヘカラス」のように、その神聖性を作り上げ、強調し、ひたすら絶対化に努めるようになる。

さらに憲法だけではなく、天皇の神聖性を高めるため歴史や神話までもその対象となった。
日本人にとってイザナギ・イザナミによる天地開闢や天照大御神をはじめとする神話は単なる神話ではなく、現実の歴史でなければならなかった。

小学校での歴史教育で、教師はさぞ苦労したことだろう。
何しろ雲の上にいた神が、地上に降りたことを史実として教えなければならなかったのだから。

「先生、そんなのうそだっぺ?」
天孫降臨を信じなず(普通信じないだろう)、教師に素朴な質問をする生徒は職員室でぶん殴られたという。(建国神話の昭和史/古川隆久より)

 当然ながら古代の日本に大きな影響を与えた中国や朝鮮の文化は過小評価されるか、あるいはまったく無視されるようになった。
絶対視されるべき天皇と日本の歴史は金甌無欠(きんおうむけつ。一切の傷、欠点がないこと・・・現代では死語だろう)でなければならず、皇軍は敗北を知らない無敵の軍隊でなければならなかった。

このため、今読めば荒唐無稽な神功皇后の三韓征伐は、大陸侵略を正当化させるための「正史」となり、その反面、唐・新羅の連合軍に大敗した白村江の戦い(663年)は抹殺されることになる。戦前の歴史教科書には白村江の戦いは載っていない。

 このような中で、1890年(明治23年)、明治天皇は日本人の道徳と教育の基本方針として、「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)を下した。
その内容としては、父母への孝行、友人への信義、法令遵守など部分的には頷ける箇所もあるが、結局は国家の危急に際しては「義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と謳った。

 現代語訳はいうまでもなく、勇気をふるって国家につくし、天と地とともに無限に続く皇室の運命を翼賛(天皇を助けること)せよ、ということである。つまり、天皇のための自己犠牲は日本人としての最高の道徳である、としたのだ。
教育勅語の教材使用を容認する閣議決定(2017年)に対し、教育に関するほとんどの学会が反対したが、これは当然のことだった。


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