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古代史と天皇

ハツクニシラススメラミコト


ハツクニシラス

 イワレヒコは初代天皇の神武であり、敬称は始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)というが、10代崇神天皇にも同じ敬称「ハツクニシラススメラミコト」が使われている。
「ハツクニシラススメラミコト」とは、初めて 国を統治した天皇という意味で、それ以外にはない。
万世一系というタテマエがある天皇家に、初めて国を統治した天皇が二人いるとは、どういうことであろうか。

両天皇の共通点は、「神」である。

漢風諡号

和風諡号(漢字表記は記紀で異なることが多い)

敬称

諱(いみな)

初代 神武天皇  神日本磐余彦 カムヤマトイワレヒコ  始馭天下之天皇 ハツクニシラススメラミコト 彦火火出見尊 ヒコホホデミノミコト(祖父山幸彦と同じ)
10代 崇神天皇  御間城入彦 ミマキイリヒコ 御肇国天皇 ハツクニシラススメラミコト 御間城入彦 ミマキイリヒコ(実名を和風諡号に使用?)
15代 応神天皇  誉田別尊 ホムタワケノミコト   誉田別尊 ホムタワケノミコ(実名を和風諡号に使用?)

 話は横道にずれるが、諡号(しごう)の諡とは「おくり名」であり、王などの貴人に対し死後に奉る称号である。神武や崇神など、漢字二文字のものを「漢風漢風」という。
生前の事績を評価して贈ることが多く、このため神武も
崇神生前から「じんむ」とか、「すじん」と呼ばれていたわけではない。現代でも明治、大正、昭和各天皇もまた生前からそう呼ばれてはいない。現役(?)の天皇は今上天皇と呼ばれる。

同様に神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)、御間城入彦(ミマキイリヒコ)等は和風諡号というが、第54代仁明天皇、日本根子天璽豊聡慧尊(ヤマトネコ アマツミシルシ トヨサトノミコト)を最後に和風諡号は消滅した。

 かつて、奈良時代まで歴代の天皇には漢風諡号がなかったが、孝謙天皇の時代、勅命を受けて、淡海三船(722〜785)が神武から聖武までの天皇の諡号を選んだとされる。淡海三船(おうみのみふね)は、天智天皇から4代目の子孫になる。

しかし次第に漢風の諡号は少なくなり、御所の名前や前天皇の諡号に「後」を加えることが多くなった。77代後白河天皇とか97代後村上天皇などがそれである。明治以降の天皇は、年号を諡号とする。

 また諱(いみな 忌み名)も実名ではあるが、その人の死後使える名前である。
これは諡号と同様に中国を中心とした漢字圏の風習で、その人の生前は「呼び名(通称)」で呼び、死後は呼び名、または諱を使う。三国志で有名な諸葛孔明は、性は諸葛、名は亮。孔明は字(あざな、呼び名のこと)である。

 源九郎義経は、死後義経と呼ばれたわけで、生前からそう呼ばれたわけではない。生前は九郎と呼ばれていた。だからドラマで、たとえば織田信長のことを家臣が「信長様」と呼ぶことは、ドラマ上のもので、実際にはありえず、「御館様」とか1575年右近衛大将に任じられてからは「上様」と呼ばれた。
呼び名、諱と一人で二つの名前があるは煩わしいので、明治政府はこれをあらためて、呼び名と諱を一つのものにした。

淡海三船(なぜか後ろ姿)


 さて「神」である。
「神」という字は特別な字であろう。その証拠に歴代天皇の中で「神」の字の付く天皇は、神武崇神応神の三人だけになる。
神武は初代だから「神」なのだ。江戸時代、神格化された徳川家康が、「神君家康公」と呼ばれようなものだ。

 ではなぜ、初めて国を統治する天皇が2人いるのか。
古事記も日本書紀も、天皇の命令で編纂された、いわば国家事業ともいえる。多くの学者が、膨大な時間をかけて隅々までチェックしていったことは想像に難くない。
だから記紀の編纂者の初歩的ミスとは考えられず、何らかの意味があるに違いない。

神武の敬称、始馭天下之天皇の場合、「」は馭者という言葉があるように、操る(あやつる)、操縦するという意味だが同時に治める、統治するという意味もある。また崇神の御肇国天皇の場合、肇には切り拓くという意味があり、肇国(ちょうこく)は建国のこととなる。しかし厳密には建国は人の意思だが、肇国は神の意思とされる。つまり記紀の編纂者は、崇神は神の意志で建国した、といっているのだ。

■崇神の事績

崇神の事績といえば次のようなことがあげられる。

(1) 疫病が流行し、多くの人が亡くなったのでいろいろ手を尽くしたが、一向に病は治まらなかった。しかしある夜、大物主が崇神の夢に出て「我が子の大田田根子に、我を祀らせればたちどころに治まるであろう」と告げた。崇神がそうするとようやく疫病は治まった。
(2) 即位して10年。全国を平定すべく4人の皇族、大彦命、武渟川別、吉備津彦、丹波道主命を将軍に任命し、それぞれ北陸道、東海道、西道、丹波に派遣した(四道将軍)。やがて
四将軍は天下を平らげて帰還し、人民は富み栄えたのでその御代を
ハツクニシラススメラミコトと讃えた。

 崇神天皇は、実在性の高い天皇とされる。
その是非は私には判断できないが、記紀の編纂者は、崇神を
御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)、神の意志により最初に世を治めたと認めたのであろう。ということは当時の天皇も承認している、ということいなる。

崇神が実在か架空かに関わらず、人には当然だが両親がいて、正確に遡れるか否かは別として必ず「先祖」がいる。
記紀の編纂者は、崇神から九代前の先祖を神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)と名付け、これもハツクニシラススメラミコトとしたのではないか。

なぜ遡る必要があったかといえば、天皇家の長さを強調するために、初代を神話の時代に持って行きたかったからではないか。
その意味で、神武は崇神の9代前でも、何代前でもよかったのだろう。

 では同じハツクニシラススメラミコトでも、崇神と神武で何が違うかといえば、あまりいい例えではないかもしれないが、老舗の商店と同じではないか。
つまり創業と設立の違いであろう。簡単にいえば創業とは、多くの場合個人が開業したとき、設立とは法人として登記した日をいう。

 はるかな昔、崇神の先祖のカムヤマトイワレヒコは九州からやって来て奈良盆地の片隅に自分の土地を持った。おそらく当時の感覚でも、現在の感覚でも、とてもクニとはいえないような規模の「クニ」であったろう(創業)。

 イワレヒコの子孫は、代を重ねるにつれてすこしづつ領地を広げていったことだろう。しかし広げたといっても、せいぜい奈良盆地を中心とした山城、河内、和泉、摂津あたりのクニであったろう。なぜなら四道将軍の一人、丹波道主命は丹波(京都)に派遣されたのだから。
ようするに
崇神は大和朝廷の基礎をつくり、本格的な統一に着手したということだろう(設立)。

※崇神天皇は朝鮮半島からの渡来人という説(騎馬民族説/江上波夫)もありますが、ここでは採用していません。


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