古代史と天皇
はじめに
■王朝
王朝という言葉がある。
君主が存在する時代を指す言葉として、歴史家が研究のために使用する用語となる。このため各君主が、自ら王朝を称することはない。王国とは国王が君主となる国だが、王朝と王国(国家)は必ずしも同一のものではない。
たとえばフランス王国はカペー王朝(987〜1328)、ヴァロワ王朝(1328〜1589)、ブルボン王朝(1589〜1792,1814〜30)と3つの王朝が交代したし、イギリス(王国)は、ノルマン、プランタジネット、ランカスター、ヨーク、テューダー、スチュアート、ハノーヴァー、ウィンザーと8つの王朝が交代している。現在の王朝はウィンザーである。この中で、ハノーヴァー王朝の名前は、ドイツの地名に由来する。始祖ジョージ1世(1660〜1727)は、父親はドイツの貴族だが、母親のゾフィーはイギリス王朝のスチュアート家の皇女だった。ジョージ1世はドイツで育ったが、スチュアート家の断絶によりイギリスに迎えられたのだ。
時が流れ、第一次大戦中、敵国ドイツの地名を王朝名にしているのはまずいということで、ウィンザーとあらためた。ヨーロッパは王朝の数が多く、複雑な婚姻関係で結びあっていて、実ににわかりにくい。
たとえばデンマーク王朝のグリュックスブルク家は、現在のデンマーク王国とノルウェー王国の王家だし、一族からはギリシャの国王も出ている。もっとも複雑なのはハプスブルグ家だろうが、あまりの複雑さにここに記述するのは困難です。興味のある方はウィキペディア等でご覧ください。この点、中国の王朝の推移は比較的単純で、王朝と国家は同一のものだった。
中国史上最古の王朝は殷だが、それ以降20世紀になって滅びた清まで、この地には多くの「王朝」が存在した。
つぎの表は中国歴代の王朝名と、創始者の一覧である。
通称
王朝名(年代)
創始者(初代皇帝)
殷(紀元前17世紀頃〜紀元前1046年) 湯王(太乙) 周(紀元前1046〜紀元前256年) 武王(姫発) 春秋・戦国時代
秦(前221〜206)
始皇帝(瀛政)
前漢(前221〜23)
高祖皇帝(劉邦)
新(8〜23)
王莽(莽巨君)
後漢(25〜220)
光武帝(劉秀)
三国
魏(220〜265)
文帝(曹丕)
呉(222〜280)
大帝(孫権)
蜀(221〜363)
昭烈帝(劉備)
西晋(265〜316)
武帝(司馬炎)
東晋(317〜420)
元帝(司馬睿)
南北朝 (420〜581)
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隋(581〜618)
文帝(楊堅)
唐(618〜907)
高祖(李淵)
五代十国
北宋(960〜1127)
太祖(趙匡胤)
南宋(1127〜1279)
高宗(趙構)
遼(907〜1125)
太祖(耶律阿保機)・・・契丹族
西夏(1038〜1227)
景宗(李元昊)・・・タングート族
金(1115〜1234)
太祖(完顔阿骨打)・・・女真族
元(1279〜1368)
世祖 フビライ・・・モンゴル族
明(1368〜1644)
太祖 洪武帝(朱元璋)
後金(1616〜1636) 〜清(1636〜1911)
ヌルハチ 崇徳(ホンタイジ) 中華民国 (1912〜1949)
中華人民共和国 (1949〜)・最初に皇帝を称したのは、秦の始皇帝です。
・赤い字は征服王朝(漢民族以外の民族が樹立した王朝)です。
・中華民国と中華人民共和国は、王朝ではありませんが都合上記載しました。
・ヌルハチは後金(後の清)の創始者ですが、皇帝は称していません。当然ながら、これらの王朝の創始者はまったくの「別人」であり、血縁関係はない。ただし後漢の創始者劉秀(光武帝 前5〜57)は、前漢の景帝の子孫とされている。
劉秀は、前漢を簒奪した王莽(おうもう)を倒して、再び劉氏の王朝を再興したのだ。話はそれるが、中国は古代から現代まで、一貫して「中国」という国が連続しているようなイメージがあるが、これは間違い。
かつて中国の思想家、梁啓超(1873〜1895)は、その著書「中国史叙論」で、「吾人がもっとも慙愧にたえないのは、我国には国名がないことである」と著している。秦とか、漢とか清というのは「王朝名」であって「国名」ではない。仮に王朝名ではなく国名だとしても、それぞれ別の「国」である。翻って日本では、紀元5〜6世紀。奈良盆地に生まれたその「勢力」が、近畿地方を中心に周辺を侵略し勢力を広げ、ついには「大和朝廷」を創始することになる。日本という国名が、はじめて国号として使われたのは、701年に制定された大宝律令である。約1300年も前のことだ。(当時は「ひのもと」とされた)
■世界最古の国
皆さんは考えたことがあるだろうか。
一つの王朝が、その存在期間を国家の存続の長さというなら、日本は世界最古の国であることを。だから日本は偉大とか、優れているというワケではないが。2021年現在、世界には26の王室(天皇、皇帝の場合は皇室)があるが、天皇家には約1500年位の歴史がある。日本に次ぐ古い王朝はデンマークのグリュックスブルク(リュクスボー)王朝だが、歴史は400年ほどである。
中国4000年という言葉がある。たしかに中国最古の王朝である殷は紀元前17世紀ごろには存在し、紀元前1040年に滅びた。その後中国では周、秦、漢などの「国」が数十年から数百年の比較的短い年数で興亡を繰り返している(上の表を参照)。
古代、日本は中国(当時は中国は三国の時代で、たとえば魏から)「倭」と言われた。日本という国号は、大宝公式令(701年)が初見だが、はじめは「ひのもと(日本)」などと言った。
その大宝公式令、701年の発布である。
一つの「国」が滅びずに1000年もの間存在している国は日本以外にはない。日本の皇室の歴史が長いのは「王朝の交代」がなかったことによる。
これは、じつに不思議なことといわねばならない。私が、天皇家存続の不思議さを意識したのは、私が20代のころ、吉川英治氏の小説三国志を読んでからだと思う。
いうまでもなく三国志は、古代中国の治安興亡を背景に、魏・呉・蜀の栄枯盛衰を記したものである。魏は曹操の息子の曹丕(そうひ 187〜226)が、呉は孫権(そんけん 182〜252)、蜀は劉備(りゅうび 161〜223)がそれぞれの王朝(国)の初代皇帝となった。司馬遼太郎氏や海音寺潮五郎氏等、日本史.の本だけを読んでいては気が付かなかったと思う。
なぜ日本では王朝の交代はなかったのか。
こればかりではない。
私にとって、天皇家にはいくつかの不思議がある。
以下の拙文は、項目数は少ないが、神話から歴史にかけて古代史、特に神話と天皇家に関する私の考えである。